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第8話 亡き夫も、新しい夫も、私を利用していました

last update Fecha de publicación: 2026-08-16 13:57:48

第8話 亡き夫も、新しい夫も、私を利用していました

 胸を刃物で刺されたような痛みはなく、泣き崩れることも、画面へ物を投げつけたい衝動もなかった。代わりに、冬真と初めて会った日の光景が、古い監査資料を差し替えられたときのように、一枚ずつ別の意味へ置き換わっていった。

 四年前、内部監査に関する研究会で、隣の席へ遅れて座った冬真は、久瀬製薬の副社長という肩書を名乗らず、休憩時間に私が落とした資料を拾い、数字の誤記を一つ指摘した。私が、拾ってもらった礼と、頼んでもいない確認作業への苦情を同時に述べると、彼は、あなたは礼を言いながら怒れる人なのですねと笑い、その三日後、研究会の事務局を通して食事へ誘ってきた。

 あの出会いが偶然ではなかったのなら、隣の席も、資料を拾ったことも、誤記を指摘して会話のきっかけを作ったことも、全てが準備されていた可能性がある。冬真が私を愛した日を探そうとするより先に、どこまでが計画だったのか調べようとしている自分に気づき、私は、夫を亡くした妻ではなく、架空取引の範囲を確定する監査人へ

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    第86話 娘を「未来の母体」から守るため、夫は父親になると署名しました「灯の名前を、いますぐ消してください」 私の声は自分で思っていたより低く、泣き声にも怒鳴り声にもならなかった。けれど、机の上に置いていた手が震え、爪が皮膚へ食い込んでいることには、朔也が指を開かせてくれるまで気づかなかった。「澪、手を傷つける」「私の手なんて、いまはどうでもいいの」「どうでもよくない。ただ、灯の件を止めるなと言っているわけではない。手を傷つけなくても、怒っていい」 朔也は私の掌に残った爪の跡を確かめ、それ以上は触れずに手を離した。以前なら、落ち着けと言ったかもしれない。けれど、娘が生まれた瞬間から未来の妊娠を予定されていた母親へ、落ち着くことを求めるほうがおかしいと分かっているのだろう。 候補者管理画面には、久瀬灯の名と出生日時、現在の入院先、診療識別番号まで表示されていた。移植予定は、早くても十数年以上先である。それでも、遠い未来だから安心できるはずがなかった。佐伯医師の計画は、私たちが今日拒否しても、灯が自分で選べる年齢になるまで待つつもりでいる。 しかも、それは待つという穏やかな言葉で呼べるものではない。 娘が成長し、妊娠できる身体になる日を、使用可能になる日として数えているだけだった。「削除は、いま行うべきではありません」 真奈さんが言った。 私は反射的に彼女を睨んだが、真奈さんは怯まず、画面の記録を別の保存領域へ複製しながら続けた。「灯ちゃんを候補者として残したいわけではありません。ここで元データを消すと、誰が、いつ、どの情報を使って登録したかという証拠まで失う可能性があります。まず管理権限を凍結し、候補者としての効力を停止したあと、証拠を保全した状態で登録そのものの無効を求めるべきです」「では、名前が残っているあいだ、向こうの計画も残るんですか」「表示と効力は別です。いまから実行権限を止めます。ただし、表示を消して安心した結果、別の番号で登録し直されるほうが危険です。残っている記録を、こちらが監視できる状態にしておいたほうがいい

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    第84話 亡き夫の求婚状には、「澪をCの母にしない」と書かれていました 冬真さんの手紙を開かなかった夜、私はほとんど眠れなかった。 読まないと決めたのは自分なのに、目を閉じるたび、封印された文書の冒頭だけが勝手に頭へ浮かんだ。彼は父に何を訴え、何を約束して私との結婚を認めさせようとしたのか。研究対象として近づいたことを、どんな言葉で愛情へ言い換えたのか。あるいは、本当に私を愛していたのだと、死んだ人にしか言えない美しい文章で主張しているのかもしれない。 隣の寝室にいる朔也も起きているらしく、午前二時を過ぎても床を踏む音や、水道の蛇口をひねる音が聞こえた。仮住まいの部屋は広くないのに、私たちは別々の寝室を使っている。出産後の私が眠りやすいようにという理由だったが、本当は、どちらも相手へどこまで近づけばいいのか分からないだけなのだと思う。 明け方近くになって、私は寝室の扉を開けた。 居間では、朔也がソファに座り、消音したテレビに映る天気予報を眺めていた。手には湯気の消えたマグカップがあり、テーブルには開封したものの一枚も減っていないクラッカーが置かれている。「眠れないなら、声を掛けてくれればよかったのに」「澪こそ。俺は、水を飲みに起きただけだ」「午前二時からずっと?」「喉が渇きやすい夜だった」「そんな言い訳で患者を納得させていたなら、資格停止が解けても医療関係の仕事へ戻さないほうがいいわね」 私が隣へ座ると、朔也はマグカップを持ったまま少し場所を空けた。逃げたというほどではなく、私が横になりたければ足を伸ばせる程度の距離だった。そういう気遣いをされると、こちらから近づきたくなるのだから、人の心は面倒である。「冬真さんの手紙を、読まないと決めたことを後悔しているわけではないの。ただ、読まないあいだも中身を考えてしまうなら、結局、あの人に時間を使わされているような気がして腹が立つのよ」「兄さんなら、死んだあとまで澪を悩ませられることを喜びそうだ」「そんなに性格が悪かったかしら」「悪かった。本人は、相手に考える機会を与えているつもりだ

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    第83話 凍結胚を作らせた父は、私を救うために他人の子を作っていました 父の名が表示された封印記録は、独立代理人が選任されるまで開けなかった。 待たされたのは三日間だけだったが、その三日は、これまで経験したどの三日とも時間の流れ方が違っていた。灯の呼吸状態は安定し、心拍の乱れも一度あっただけで、外部ペーシング装置が作動することはなかった。喜ぶべき経過なのに、保育器の前に座っていると、あの子の小さな身体の中にあるものまで、父や冬真さんがずっと以前から計算していたのではないかという疑いが湧いてくる。「おじいちゃんが始めたことらしいよ」 保育器の窓から手を入れ、灯の掌へ人差し指を触れさせると、頼りない力で握り返された。娘に話して聞かせるには、あまりにも夢のない家族の昔話だった。「でも、お母さんにもまだよく分からないの。分からないことを分かったふりで教えると、うちではろくなことにならないみたいだから、あなたにはちゃんと調べてから話すね」「新生児に話す内容としては、かなり堅いな」 背後から聞こえた朔也の声に振り向くと、彼は看護師の確認を受けながら、貸し出し用のガウンを着ていた。電子資格の利用停止は解除されていないため、今日も職員の立ち会いがなければ灯のそばへ来られない。それでも、最初の頃のように苛立ちを態度へ出すことはなくなり、本人確認を一つずつ受け入れている。「赤ちゃんだから何も分からないと思って、都合のいいことだけ話す大人にはなりたくないの」「分からないなら、せめて楽しい話をしてやれ。昨日、俺がおむつを替えたら、看護師に前後が逆だと指摘されたこととか」「それは灯より、将来のあなたのために記録しておいたほうがいいわね。育児に協力したと言い張ったときの反証資料になるから」「すでに看護記録へ残されているかもしれない。今日の担当者は笑いを堪えるのが下手だった」 朔也が保育器の反対側へ回ると、灯は私の指を握ったまま、そちらへ顔を動かそうとした。声を聞き分けているのか、偶然なのかは分からない。それでも朔也は嬉しそうに目元を緩め、周囲に人がいることを思い出したように、すぐ真面目な顔へ戻った。

  • 夫の葬儀で、死んだはずの彼から電話がきた ~「棺を開けるな」その一言から始まる財閥復讐婚~   第82話 知らない胚を移植される日、私は説明を求めて病院を出ていました

    第82話 知らない胚を移植される日、私は説明を求めて病院を出ていました 私の身体に、私の知らない胚を迎える準備が施されていた。 その事実を知った翌朝、私は篠崎先生の診察室で、腹部に塗られた冷たいジェルの感触に耐えながら、天井の小さな染みを見つめていた。出産後の身体はまだ自分のものに戻りきっておらず、検査台に横たわっているだけで、使いすぎた道具の点検を受けているような気持ちになる。けれど、本当に恐ろしかったのは傷や痛みではなく、私自身の記憶よりも詳しく私の身体を知っている記録が、どこかに残っていることだった。 篠崎先生は機器の画面を確かめたあと、私の腹に当てていた器具を静かに離した。「現在の所見だけで、当時どこまで投薬を受けたのか、胚移植の直前まで進んでいたのかを断定することはできません。処方記録にあるのは、子宮内膜を整えるためのホルモン剤と、免疫反応を抑える目的だったと思われる薬、それに血液を固まりにくくする薬です。ただし、後ろの二つについては一般的な不妊治療の範囲を超える組み合わせで、AUR側の試験計画が混じっていた可能性があります」「可能性、ということは、薬を飲んだ記録だけでは、Cを移植されたかどうかは分からないんですね」「分かりません。少なくとも、Cの核遺伝情報を持つ妊娠が成立したという記録は、いま確認できている範囲にはありません。現在の身体を調べても、過去に短期間だけ移植を受けたかどうかまで遡って証明するのは困難です。ですから、今日の検査で何も見つからなかったことを、何もされなかった証拠だと思わないでください。同時に、最悪のことが起きていた証拠もない。そこは分けて考えましょう」 安心させるために曖昧な言葉を選ばず、分からないものは分からないと告げてくれる先生の話し方はありがたかった。それでも私は、渡されたタオルで腹を拭きながら、処方薬の一覧から目を離せなかった。そこには私の旧姓と、当時の患者番号と、朝夕の服用量が几帳面に並んでいる。「この薬、覚えています」 診察室の壁際に立っていた朔也が、わずかに身体を起こした。彼は診察のあいだ、私が頼むまで近づかず、だからといって遠くへも行かず、白衣を掛けるフックの隣という妙

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